アメリカでロケットが打ち上げ失敗した際、観衆の多くから喝采が起こったとメディアで報じられています。一方の日本は某新聞記者が同じく打ち上げ失敗に対し、それは失敗ではないのかと執拗に詰め寄ったのと対比して報道されました。
アメリカが民間主導、日本が国の予算を大規模に投入しているという違いはあるものの、失敗に対する許容度として大きな相違点があります。同様の流れは現在進行形のビジネス領域でも多く見られるものです。
日本に根強く残るハラキリ文化
事業会社ごと、組織ごとで失敗した社員に対する劣悪な嫌がらせや強要は労働関連法の対象となります。今回取り上げたいのは、スタートアップです。
2010年代前半から日本にも根付いてきたスタートアップは、いまや東証プライム市場にて存在感を示す企業を生んだ反面、数多くの失敗を生みました。スタートアップの失敗は多くの場合、法人格の消滅に直結します。かつ法人格で返済が必要なデットファイナンス(融資借入)を実行していた場合、代表取締役個人としても連帯した返済責任を負います。
そもそもスタートアップは10社に1社が成功する確率ともいわれるため、本来はこの連帯責任とは価値観を一にしないものです。当然、個人としてリセットする自己破産という方法が、法律によって認められています。ところが一度自己破産をした経営者に寄せられるのは、「数年我慢していればまたバッターボックスに立てる」や、「お金を出した人は自己破産をされても忘れない」というものも目立ちます。
見当違いな指摘ではありません。ただ、スタートアップの本懐である、ダメなら撤退して次のチャレンジをという文化とはかけ離れた印象を受けます。まさに、今回のロケット打ち上げで見えた部分と共通するものではないでしょうか。
挑戦者は誰よりもノウハウを蓄積しているのでは
本稿ではアメリカの方が優れている、日本が劣っているという優劣二元論にするつもりはありません。投資家保護や責任論という意味では日本に優位性があると解釈できます。また、失敗しても人生が狂うことがないから好き放題に起業していい、では乱雑なサービスが世の中に出てしまいます(それは市場が取捨選択するという指摘はさておき)。
筆者がもっとも勿体ないと考えるのは、挑戦者は誰よりもノウハウを蓄積していないかという視点です。プロダクトを世に出すことによって関連知識を習得し、人脈も広がります。起業をしてプロダクトを世に出す程なので、気力も胆力も十分にあるでしょう。
熱が冷めないうちに再挑戦の環境を与えれば、最初の挑戦を補って余りある成功を手にする可能性があります。それは企業単体ではなく、社会全体にとっても大きな利益になります。
再挑戦しやすい土壌に変えるには
一方で再挑戦の仕組みは少しずつ整備されているという見立てもあります。デットファイナンスの中心となる政策金融公庫は再挑戦の起業家対象に特化した融資を整備しているうえ、会社と経営者個人を切り離す連帯保証の見直しも増えてきました。金融機関の職員に聞くと、財務的に問題なければ連帯保証の見直しは積極的に勧めるように、と当局から指示も出ているようです。
残るのは心理的な部分です。筆者もスタートアップに席を置き5年を超えますが、一度失敗したと表明した人は最前線、特にSNSやブランディングといった面で一歩引いています。それが本人に原因があるのか、競合や時代の移り変わりといった抗えない部分だったかは関係なくです。あくまで個人から見える範疇でしかないのですが、読者の皆様のまわりはいかがでしょうか。
せめて挑戦した領域が今後も期待でき、かつ日本にとって解決していかなければならない社会性を有しているなら、引き続き目立って欲しいものです。
少し話は極端かもしれませんが、悪意のある運営者によって自己破産をしている方を地図上でマーキングしているサイトがあります。弁護士などによって警鐘を鳴らされているものの、サーバーが海外にあることで公開不能とはできないとのこと。掲載を止めさせるには、相応の金額を暗号資産で支払わせるようです。起業家に対する仕打ちがこれだと、誰も挑戦をしない社会になります。その結果、国が発展することはには繋がりません。
皮肉なことに近いタイミングで実施されたロケット発射と、打ち上げ失敗に対する周囲の反応から、長く指摘されてきた国民性が際立つニュースとなりました。日本では元来の文化とされてきたハラキリ習慣も、どうにかして見直す流れに至って欲しいと思います。
国を上げて邁進するスタートアップの伸長ともきわめて相性の悪いこの文化から、挑戦者を評価し再挑戦の機会を与える文化が醸成することを願います。