香港証券市場130年の歴史(後編):香港証券取引所はどのようにして誕生したのか?

前回は香港証券市場130年の歴史のうち、アイスハウス・ストリートを中心に展開された1940年代までの歴史を紹介しました。ここから、どのように現在の形になっていくのでしょうか?今回はその後の歴史を見ていきたいと思います。


▼参考

香港証券市場130年の歴史(前編):はじまりはアイスハウス・ストリートから


統合後しばらくは緩やかな発展


1947年に2つの取引所が統合して誕生した「香港証券交易所」(The Hong Kong Stock Exchange)でしたが、当初の会員は英国を中心とした外国籍のブローカーや英語が堪能な中国系のブローカーなどに限られ、依然として閉鎖的で差別的な体質は続いたようです。このころの上場企業は外資系の企業が中心で、中国系企業は資金調達が制限されていました。


1960年代までの香港市場は、1961年のジャーディン・マセソン(=かつて中国とのアヘン貿易で大きな利益を得た英国系資本の貿易商社)の上場など、何度か投資のブームを迎えることがありましたが、発展のペースは総じて緩やかなものでした。


この時代は、中国とインドの国境紛争やベトナム戦争の激化など国際情勢が不安定だったことに加え、米国が香港からの綿製品の輸入を制限したことで域内経済が打撃を受けていました。1967年には文化大革命の影響を受けた左派勢力による暴動も発生。このほかにも、複数の銀行で大規模な取り付け騒ぎが発生するなど混乱の時代でもありました。


 

遠東交易所の設立、そして4つの取引所による大競争時代


こうしたなか、1969年に李福兆氏ら財界人を中心に新たな取引所となる「遠東交易所」(The Far East Exchange)が設立されます。李福兆氏は東亜銀行(00023)の創業者の一人である李冠春氏の長男で、6歳の時にはすでに株式投資を理解し、「株の神童」と言われていたそうです。


新たな取引所を設立した李福兆氏は「香港の経済発展のためには、より多くの中国系企業や中小企業にも上場の門戸が開かれるべきだ」と主張し、企業の上場基準の緩和など、さまざまな改革に着手します。当時の「香港証券交易所」は、英語を公用語としており、上場するための書類や契約書類など取引の記録はすべて英語での提出が求められていました。このほかにも、有形無形のさまざまな制約があり、中国系企業の上場は実質的に制限されていたのです。「遠東交易所」は取引所での公用語を「広東語」とし、株式投資の大衆化へと道を切り開いたのです。


「遠東交易所」は人気を集め、開業から3年目の1971年にはすでに「香港証券交易所」の取引額を上回る規模に急成長を遂げます。その後、「遠東交易所」の成功に続けとばかりに、1971年に「金銀証券交易所」(The Kam Ngan Stock Exchange)、1972年に「九龍証券交易所」(The Kowloon Stock Exchange)が相次いで設立され、4つの取引所による大競争時代を迎えます。


上場基準の緩和により、この時期には上場企業の数も大きく増え、株価も大きく上昇しました。長江和記実業(00001)や新鴻基地産(00016)、新世界発展(00017)など、いまなお香港経済に対して大きな影響力をもつ香港系財閥企業の多くが、この時期に上場を果たしています。1969年には香港を代表する株価指数であるハンセン指数(1964年7月末を基準値100として算出)の公表も始まりました。


写真は「遠東交易所」を設立した李福兆氏 出所:iMoney智富雑誌


大競争時代から再び統合の時代へ


4つの取引所による競争で取引が活性化し、株式投資の大衆化が進みましたが、激しい競争はさまざまな問題も引き起こします。まともな上場審査を経ないまま上場した企業が上場後に問題を起こしたり、株価の上昇を見越して借り入れた資金による短期的な売買や株式を担保にした借金の増加も社会問題化。各取引所間でばらばらなルールも混乱を招きました。


こうした中、香港当局も規制に動き出します。1973年には当局の許可なく新たに取引所を設立することを禁止します。1974年には「証券条例」や「投資家保護条例」などを相次いで発布。そして、政府主導で4つの取引所の統合に向けた動きも出始め、将来の統合について意見交換する場として4つの取引所が参加する「香港証券交易所聯会」(The Hong Kong Federation of Stock Exchange)も設立されます。


そうしたなか、1977年には業界のリーダー的な存在となっていた「遠東交易所」と「香港証券交易所」が抜け駆けをします。2つの取引所による合併話が持ち上がり、4つの取引所による統合協議に水を差しますが、これは各方面の反対で頓挫します。統合の動きはしばらく停滞しますが、1980年に4つの取引所を統合した組織である「香港聯合交易所」(The Stock Exchange of Hong Kong)が立ち上がります。ようやく統合の方向性が固まり、6年後の1986年3月27日に4つの取引所が最後の取引日を迎えます。そして、翌週の4月2日に新生「香港聯合交易所」の取引が始まったのです。統合後の取引所のトップには、「遠東交易所」の創設者である李福兆氏が就任しました。


2000年の大規模再編で「香港交易及結算所」が誕生


その後、2000年にさらなる大規模な再編が行われます。証券取引所の「香港聯合交易所」(The Stock Exchange of Hong Kong)、先物取引所の「香港期貨交易所」(Hong Kong Futures Exchange)、決済機関の「香港中央結算」(Hong Kong Securities Clearing)の3つが統合。持ち株会社としての「香港交易及結算所」(Hong Kong Exchanges and Clearing)が誕生したのです。これが現在の形の香港証券取引所です。そして、同じ年の6月、自身の運営する証券取引所への上場を果たします。


写真は「香港交易及結算所」の2000年上場時の様子 出所:香港交易所里程碑


この間、上場企業数は1999年末の約700社から2022年8月末時点で2577社に拡大。時価総額は約5兆HKドルから35兆5900億HKドル(約648兆4600億円)へと膨らみました。上場企業の時価総額では世界7位の規模となり、アジアを代表する取引所として毎日活発な取引が行われています。


香港の証券市場はこの130年余りの間に大きな変遷を遂げてきました。旧来の仕組みを変えようとする新たな取引所が出てきては消え、そして統合を繰り返してきました。上場企業の顔ぶれも時代の移り変わりとともに変化。発足当初の英国系中心から香港地場系中心の時代へ、そして現在では中国本土系の企業が香港市場の主役となってきています。



香港の証券市場130年の歴史を2回にわたって簡単に紹介してきました。いかがだったでしょうか。歴史を知ると少し思い入れが出てきませんか?次回から香港証券取引所に上場する主な企業を紹介していきたいと思います。お楽しみに。



中国株情報部 部長兼編集長

池ヶ谷 典志

立命館大学卒業後、1997年に北京の首都経済貿易大学に留学。 北京では中国国有の大手新聞社などに勤務し、中国の政治、経済、社会記事などを幅広く執筆。 帰国後の2004年にT&Cトランスリンク(現DZHフィナンシャルリサーチ)入社。 現地での豊富な経験や人脈を生かして積極的に中国企業や政府機関などへの取材を行ない、中国企業の調査・分析を行なっている。

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