1987年10月19日の月曜日、香港市場を発端にした世界同時株価大暴落の波は、ニューヨーク株式市場を襲い、米国のダウ平均株価(DJIA)は、16日の終値2246.73ドルから19日の終値1738.74ドルまで508ポイント(22.6%)下落しました。
22.6%という過去最大の1日の減少率を記録したことで、「ブラックマンデー(Black Monday(暗黒の月曜日))と呼ばれています。
1929年10月24日(木曜日)にウォール街を襲った株価暴落は、「暗黒の木曜日(ブラックサーズデー)」と呼ばれ、下げ幅は▲30.57、下落率は▲11.73%でした。
当時は、1929年9月3日の最高値381.17ドルから、1932年7月8日の安値41.22ドルまで89%下落しました。
ニューヨーク株価の暴落の要因としては、レーガン第40代米大統領の経済政策「レーガノミクス」による「双子(財政・経常)の赤字」の拡大、西ドイツの利上げによる「ルーブル合意」の破綻、そして、「ポートフォリオ・インシュランス」という運用手法が挙げられています。
当時の米国機関投資家が採用していた「ポートフォリオ・インシュランス」とは、運用額が一定の時期に一定の価値を維持するように、株式などのリスク資産の「エクスポージャー」(実質的な組み入れ率)を調節するプログラムです。
「ポートフォリオ・インシュランス」では、株価が下がれば下がる程、自動的に損切りの売り注文を出し続けることで、下げに拍車をかけてしまいました。
1987年8月11日、米国のインフレを「ボルカー・ショック」で鎮静化させていたカリスマFRB議長だったボルカー第12代FRB議長が辞任して、グリーンスパン第13代FRB議長が就任していました。
グリーンスパン第13代FRB議長は翌日、「信用秩序維持のため流動性供給の用意がある」との声明を公表し、FF金利を7.25%から6.50%に引き下げて、株式市場の混乱を鎮静化させたことで「マエストロ」との称号を獲得しました。ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「新しいFRB議長は、試験に合格した」と称賛しました。
ドル円は、1985年9月の「プラザ合意」でのドル安誘導を受けて、240円付近から1988年1月の安値120.25円の半値水準までの下落途上にありました。
10月19日のドル円相場は、始値が140.95円、高値142.40円、安値140.40円、終値は142.40円の高値引けでした。
翌日10月20日には、日経平均株価が3836円安(▲14.9%)の暴落を記録しますが、ドル円は高値144.50円まで上昇し、144.15円で引けています。10月22日には高値145.05円まで上昇した後、1988年1月4日の安値120.25円まで下落していきました。
ニューヨーク株式市場が暴落したにも関わらず、ドルが買われた背景には、米国の投資ファンドが投資信託の解約により資金が必要となり、日本株などの海外資産を売却して、米国へ資金を還流させるレパトリエーション(国外滞留資金の本国環流)を行ったことが挙げられます。
米国の投資家が海外資金の引き揚げが終わった頃、海外投資家の米国からの資金引き揚げが優勢となり、ドルは下落していきました。