プーチン露大統領:「あなたはいったい何を求めておいでか?わが国の国民は、そもそも社会民主主義的ですからね。あるいは、社会主義的です」
ゴルバチョフ元ソ連大統領「自分のことを神の代理だと思っているようだね」
2022年8月30日、ソビエト連邦の初代、そして最後の大統領であるミハイル・ゴルバチョフ氏(1931年3月2日~2022年8月30日)が死去しました。
西側諸国では、ゴルバチョフ元ソ連大統領が掲げた構造改革「ペレストロイカ」(立て直し)と情報公開や言論の自由化などの「グラスノスチ」により、東西冷戦を終結に導いた功績が称賛され、1990年にはノーベル平和賞が授与されました。
しかし、ロシア国内では、プーチン露大統領が「20世紀最大の地政学的悲劇」と非難するソビエト連邦を崩壊させたとして、評判は良くありません。国葬は行われず、プーチン露大統領は、9月3日の葬儀には参列しませんでした。
マキャベリの『君主論』は「君主は旗幟を鮮明にせよ」と力説していますが、理想主義者であるゴルバチョフ元ソ連大統領は、ソ連消滅を目論んでいた現実主義者レーガン第40代米大統領に跪いてしまいました。
1991年、ゴルバチョフ元ソ連大統領が(第1次)東西冷戦に敗北したことで、有事のドル買いが後退しました。
2022年、プーチン露大統領が(第2次)東西冷戦を開始したことで、有事のドル買いが復活しつつあります。
1984年、ソ連議会代表団長として訪英したゴルバチョフ氏は、サッチャー第71代英首相との会談で、19世紀の大英帝国全盛期のパーマストン英首相の「英国には永遠の友も永遠の敵もなく、永遠の利害関係者があるのみ」という有名な警句を引用しました。ゴルバチョフ氏は「私たちも同じだ。私たちの仕事は、私たちに共通する利害を特定することだ」とサッチャー氏に伝えました。
サッチャー第71代英首相は、「彼(ゴルバチョフ氏)は比較的オープンで知性的だ。親しみやすくて魅力やユーモアもある。ビジネスができる相手だと確信した。正直、彼のことは嫌いではない」とレーガン第40代米大統領に伝えました。
1985年3月、ゴルバチョフ氏は54歳でソビエト連邦最高会議議長に就任しました。
また、1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で原発事故が勃発しました。
1987年6月12日、ブランデンブルク門において行われたベルリン750周年記念式典で、レーガン第40代米大統領は、ゴルバチョフソ連書記長に対して、「この壁を壊しなさい!(Tear down this wall!)」と述べました。
1987年12月、ゴルバチョフソ連共産党書記長とレーガン第40代米大統領は、中距離核戦力(INF)全廃条約に署名しました。
1989年9月、サッチャー第71代英首相は、モスクワでの会談で、ゴルバチョフ共産党書記長に対し、西欧でドイツ再統一を望む者は誰ひとりいないと伝え、ドイツ再統一を阻止するために、早急に手を打ってほしいと迫りました。
そして、コール第6代独首相に対して、東西ドイツ統一を認める代わりに、ヨーロッパ最強通貨であるドイツマルクの放棄を迫りました。
コール第6代独首相は、東西ドイツ統一という悲願達成のため、ドイツマルクを放棄し、欧州統一通貨「ユーロ」を受け入れました。
1990年3月、ゴルバチョフ共産党書記長は、ソビエト連邦の初代大統領に就任しました。
1991年12月、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソビエト連邦最高会議も解散を決議しました。1989年の東欧諸国での革命とともに、ソ連の崩壊は冷戦の終わりを告げました。
1991年10月に米紙ワシントン・ポストで、ゴルバチョフ氏は「ウクライナ抜きの連邦など想像できない。ウクライナの独立要求は自殺に等しいナショナリズム」と述べ、ソ連最大の共和国だったウクライナの指導者に対して連邦に留まるように訴えました。
2014年にロシアが武力でクリミアを併合した時、ゴルバチョフ氏は「クリミアはソ連の法律に基づいて、ウクライナに編入された。つまり住民の意見を聞かずに、共産党の法律でウクライナの一部になったのだが、今回は、住民投票が実施されて住民の意思でこの過ちが正された」と、モスクワ・タイムズで支持を表明しました。