1992年9月16日、「プラザ合意」での円買いで伝説の投機家となっていたジョージ・ソロス氏(1930年~)は、イングランド銀行との英国ポンドを巡る戦いに勝利して、伝説の投機家の座を確固たるものにしました。
投機筋と中央銀行との戦いは、2015年1月に、スイス国立銀行(SNB)が「1ユーロ=1.2スイスフラン」の防衛ライン維持を放棄させられ、2022年は日本銀行の10年国債利回り0.25%防衛を巡る睨み合いが続いています。
1930年、ソロス氏は、ユダヤ系ハンガリー人としてブタペストで生まれましたが、同じ年に、米国では伝説の投資家となったウォーレン・バフェット氏が誕生しています。
1947年に英国に留学し、カール・ポパーの「開かれた社会」(人間は不完全な理解を基にして行動するため、究極の真実は手に入れることができない、と理解した上で成立する社会)に出合いました。そして、この概念「市場は常に間違っている」ことを証明するため、1973年に、ジム・ロジャース氏と「ソロス・ファンド・マネージメント」(後のクォンタム・ファンド)を創業し、クォンタム・ファンドの運用実務の責任者として、21世紀の伝説の投機家となったスタンレー・ドラッケンミラーを採用しました。
ソロス氏は、「私が他の投資家と違うところは、間違いを間違いと気づき、すぐに間違を修正できることだ」と述べていますが、1992年には英国の間違いを正すため、「この勝負は決して賭けではなかった」戦いをイングランド銀行に挑みました。
当時のドイツは、1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年に東西ドイツが統一されましたが、国内総生産(GDP)比で5%程度の巨額の統一コストによるインフレ懸念から、高金利政策がとられており、1992年当時の公定歩合は8.25%でした。
英国は、1990年9月にインフレ率が10.9%まで上昇しており、欧州通貨制度(EMS)に加盟して、為替相場メカニズム(ERM)へ参加しました。
この為替相場メカニズムは、加盟国は2カ国間の為替レートの変動幅を当初レートの±2.25%に押さえることで合意しており、必要に応じて市場に介入することを義務付けていました。英国は、為替相場メカニズムに参加することで、為替レートを制御してボラティリティを制限することにより、インフレを抑制し、輸出企業に安定性をもたらすことを目論んでいました。英国は、インフレを抑制し、原材料やエネルギーなどの輸入品の価格を下げるために、比較的高いレートでERMに入りました。しかし、過大評価されたポンドは輸出企業に不利益をもたらし、ポンド高を維持するために、政策金利が高めに設定されました。
英国は、過大評価されたポンド相場と不動産バブルの崩壊と相まって、不況に陥りました。
英国ポンドとドイツマルクの固定レートは、1ポンド=2.95マルク、変動制限下限レートは、1ポンド=2.7780マルクでした。
ソロス氏は、投資に関するカンファレンスでドイツ連邦銀行のシュレジンガー総裁に「欧州通貨単位(ECU)を通貨として認めるか?」と質問しました。シュレジンガー総裁は「コンセプトとしては認めるが、名称が気に入らない」と答えました。
この回答により、ソロス氏は、欧州為替相場メカニズム(ERM)で過大評価されている英国ポンドを売り浴びせても、ドイツ連銀は、英国中銀のポンド防衛に援軍は送らない、と確信しました。
過大評価されていたポンドの売り仕掛けを発案したドラッケンミラー氏は、ソロス氏の指示により、世界中の銀行からポンドの信用枠を100億ドル相当確保していました。
「暗黒の水曜日」(ブラック・ウェンズデー)と呼ばれた1992年9月16日、イングランド銀行(BOE)が公定歩合を午前11時に10%から12%に引き上げると、ソロス氏はそれを「手詰まり感の表れ」と受け止め、確保してあった信用枠100億ドル相当のポンド売り・マルク買いを断行し、他の投機筋もポンド売り仕掛けに追随しました。BOEは、ポンド買い介入で応戦し、午後2時に公定歩合を15%まで引き上げましたが、ポンド買い介入の資金が枯渇したことで買い支えをあきらめました。
9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行しました。早朝7時に、ドラッケンミラーは、ソロス氏に電話して「全てうまくいった」と伝え、約11億ドルの収益を上げたことを報告しました。
英国のこの時のトラウマが、1999年1月に発足した欧州統一通貨「ユーロ」への参加を躊躇させ、2016年には欧州連合(EU)からの離脱を決断させたのかもしれません。