1985年(昭和60年)は、外国為替市場関係者にとっては、「プラザ合意」の年として記憶されています。
「プラザ合意(Plaza Accord)」とは、1985年9月22日に、ニューヨークのプラザホテルで開催された主要5カ国(G-5)財務相・中央銀行総裁会議で、ドルの切り下げが決定されたことを指します。主要5カ国とは、米国、英国、ドイツ、フランス、そして日本です。
1988年の日本は、半導体の世界シェアは50.3%で世界1位、貿易黒字も世界最大でした。しかし、1985年の「プラザ合意」で輸出産業は壊滅的な打撃を受け、1986年の「日米半導体協定」で半導体業界も壊滅的な打撃を受けました。2022年の時点では、日本は貿易赤字に転落し、半導体の世界シェアも6%程度の5位に転落しています。そして、経済産業省は2030年にはゼロになると予測しています。
ドル円相場は、1985年2月の高値263.65円からプラザ合意直前の9月20日のニューヨーク市場終値242.00円まで下落していましたが、22日のプラザ合意を受けて、23日の東京市場の始値は239.05円、安値225.30円、終値226.10円となり、1988年1月4日の安値120.25円まで下落トレンドを辿って行きました。
すなわち、日本の自動車メーカーが1万ドルの日本車を米国で販売した場合、1ドル=240円の時は、240万円になりますが、1ドル=120円では、半分の120万円にしかならないことになります。
1985年9月のプラザ合意のドル安誘導は、1985年1月17日にワシントンで開催されたG-5会議の片隅で囁かれていました。当時の米国は、レーガン第一期政権の「強いドル」政策の下、ウォール街の証券会社出身のリーガン米財務長官が「ドル高政策」を標榜していました。すなわち、ドル高政策で米国ウォール街に資金を引き寄せて、ドル高、株高・債券高のトリプル高を展開させていました。この時、ローソン英大蔵大臣はリーガン米財務長官に対して、ドル高の是正を要請しましたが、聞き入れられませんでした。しかし、ホワイトハウスの首席補佐官だったベーカーは、ドル高による米国の輸出産業への悪影響を懸念していました。
1985年2月4日、ベーカー首席補佐官は、米国財務長官に就任します。そして、ドル高政策の副作用である「双子の赤字」(財政赤字+経常赤字)を是正するという旗印を掲げ、ドル高政策で資本流入を支援する「ウォール・ストリート」から、ドル安政策で製造業の輸出を支援する「メイン・ストリート」にドル政策の転換を図りました。
すなわち、1985年9月のプラザ合意でのドル安政策は、2月のベーカー米財務長官の誕生によって予告されていたわけで、ドル円が2月に263.65円で反転した背景といえます。賢明な投資家は、ドル高政策を推進したリーガン米財務長官が退き、ドル安政策を推進するであろうベーカー米財務長官が登場したことで、ドル売りを仕掛けたのかもしれません。
ベーカー米財務長官は、対米貿易黒字が最大の日本の竹下大蔵大臣に対して、1割円高の220円程度の円高を要請するつもりだったとのことですが、竹下大蔵大臣は、2割円高の190円までの円高を容認し、「円高大臣と呼ばれたい」と述べています。
プラザ合意でのドル安誘導政策を受けて、日本銀行の為替課長は、日曜日に三越日本橋前に主要邦銀の為替担当者を呼び出し、口頭でドル安政策決定を伝えました。主要邦銀の為替担当者は、ディーリングルームに戻り、当時外国為替市場が開いていたバーレーン市場でドルを売りました。