1949年4月23日、ドル円の為替レート(1ドル=360円)が公表され、25日から実施されました。
2022年7月の時点でのドル円相場130円台が、輸出産業に「良い円安」なのか、それとも輸入産業に「悪い円安」なのか、議論が分かれています。
アメリカ政府が、1ドル=360円の円安気味に設定した目論見は、日本の輸出を促進して経済発展させ、共産圏に対する橋頭保を構築することでしたので、日本にとっては「良い円安」だったと言えます。
しかし、1871年に1ドル=1円に設定されてから100年後の1971年のニクソンショックで、1ドル=360円の固定相場が放棄されたことは、米国にとって「悪い円安」だったことになります。
太平洋戦争敗戦直後の1945年9月の軍用交換相場は1ドル=15円でした。その後、急速なインフレにより、1947年3月に1ドル=50円、1948年7月に1ドル=270円、1949年4月には1ドル=360円の固定相場が決定されました。
ドル円相場は、戦後の混乱していた物価指数に準拠する相対的購買力平価(335円)、金価格基準平価(312円)、300円台の輸出為替、200円台の輸入為替など、200円から400円までの広範囲に乱立していました。
しかし、最終的には、米国務省での以下のような会話で、1ドル=360円に設定されました。
「『円(YEN)』ってどういう意味なの?」
「『円』は、circleという意味らしいです」
「だったら、circleは360度だから、360円で決まりだ」
連合国総司令部(GHQ)は、政治的には、日本国憲法の草案を9日間で作成し、経済的には、1ドル=360円(※360度)の固定相場を設定、という急場しのぎをやってのけています。
日本の新通貨「円」の名称は、明治政府の財政責任者となった大隈重信が、お金を意味する「丸」から「円」とした説、貨幣を円形に統一したため、などと言われています。
そして、「円」は、バビロニア時代に、太陽暦が365日、太陰暦が355日だったこと、月と太陽の動きから60進法を考え出して、360度に設定されました。
1948年4月21日、マッカーサー連合国最高司令官は、米国陸軍省に対して、1ドル=50円の軍用レートが、急激なインフレにより著しく割高となり、米国軍人・軍属が日本国内で生活する際に非常に不便を感じており、現実的な軍用レート225円程度までの円安への変更を要請しました。
米国政府は、国務省、財務省、陸軍省の協議により、軍用レートと一般商業用レートの統一ドル円為替レートを設定することにし、米連邦準備理事会(FRB)調査局次長のラルフ・ヤングを団長とする「円外国為替政策に関する特別使節団」(ヤング使節団)を派遣しました。
ヤング使節団は、6月12日に報告書を提出し、1ドル=300円を中心レートにして、上下10%(30円)幅の選択肢を持たせて、1ドル=270円~330円の為替レートを、連合国最高司令官総司令部(SCAP)に提言しました。
1ドル=300円の根拠には、
1)現在の貿易量を維持し、将来的には発停させることが可能な「円安」のレートであること(※80%の輸出が成り立つバルク・ライン・レートは220円)、
2)日本の高コスト体質の産業に合理化を迫るに十分は「円高」レートであること、
3)レート設定直後におけるインフレ(30%~40%)を見込んで若干のクッションを設けた「円安」レートであること、などが勘案されました。
SCAPは。ドッジ使節団に1ドル=330円案を提出して承認されました。
アメリカ政府の国際通貨金融問題に関する国家諮問会議(NAC)は、国務省のソープの主張「330円よりも360円レートが望ましい」を受け入れて、360円を勧告しました。
アメリカ政府は、日本の輸出を促進さえ、出来るだけ早く経済援助から脱却させたいと目論んでいました。
ドッジ使節団は、330円よりも360円の円安レートを受け入れるべきだと、主張しました。
・円安レートは、輸出を促進するという望ましい効果を生み、輸出補助金の削減を容易にする
・国際的に物価が徐々に下落傾向にあることは、円安レートの採用を支持するものである
1949年4月3日、マーカットGHQ経済科学局長は、米陸軍省に対して、NACの360円提案を受け入れること、360円の為替レートは、国会で予算案が通過した後に公表する、と伝えました。