1978年11月1日、カーター米第39代大統領は、ドル下落に歯止めをかけるために、ドルの防衛策を発動しました。
カーター米第39代大統領は、「ドルの下落は米国のファンダメンタルズとは整合的ではなく、米国や諸外国の経済成長や我々のインフレ抑制政策を阻害する」と表明しました。
【ドル防衛策】
1) 米国財務省と米連邦準備理事会(FRB)によるドル買い介入(※282億ドル)
2) カーターボンド(※100億ドル:外貨建て債券)の発行・・ドル価値維持を保証
3)ドル買い協調介入:独・日・スイスの3カ国と通貨スワップで協調資金を共有
4)公定歩合:1%引き上げ(8.5%から9.5%へ)
5)預金準備率:2%引き上げ
米国が円などの「外貨建て債券」を発行した場合、円を売ってドルを買い、米国内での財政支出にます。カーターボンドが1ドル=180円で発行された場合、米国政府は、180円でドルの買い持ちポジションとなります。ドルが下落トレンドを続けた場合、米国政府は、償還日に為替差損を被りますので、ドルの価値を堅持する政策を続けることを余儀なくされます。
1970年代のドル円相場は、1971年8月15日の「ニクソン・ショック(ニクソン第37代米大統領がドルと金との交換停止などを発表)」により、1ドル=360円のブレトンウッズ体制による固定相場から解き放たれ、変動相場制の中の「海図なき航海」を漂っていました。
1971年12月には「スミソニアン体制」の下で、再び固定相場(1ドル=308円)に回帰しましたが、1973年2月に変動相場制度へ完全移行していました。
そして、米国の貿易・経常赤字と日本の貿易・経常黒字という「日米貿易不均衡」を背景に、1978年10月31日には、1ドル=175.50円まで下落していました。
しかし、ドル円は、「カーターショック」というドル防衛策を受けて急騰し、12月には203.40円まで上昇しました。
その後、1979年10月の「ボルカー・ショック」では、264.00円(1980年4月)まで上昇し、1980年代のレーガン第40代米大統領の「レーガノミクス(ドル高政策)」では、278.50円(1982年10月)まで上昇していきました。
カーター米第39代大統領は、ドルの価値は死守できましたが、第2次石油ショックによるインフレ率上昇、そして、自身が任命したボルカー第12代FRB議長による「ボルカー・ショック」によるリセッション(景気後退)などで、1980年の米国大統領選挙で敗北してしまいます。