1990年4月にパリで開催されたG-7財務相・中央銀行総裁会議では、ドル高・円安防止のための協調行動で合意しました。
ドル円は1990年4月の高値160.35円から1995年4月の安値79.75円まで、約半分まで下落しました。
ドル円のテクニカル分析では、160.35円と79.75円を底辺とするドルの長期下落トレンドの最終局面を示唆する「斜行三角形」を形成していきました。
そして、2022年に上放れたことで、目標値160.35円処が点灯しました。
ドル円は、1971年のニクソン・ショックでは、360円から175.50円まで半分になり、
1985年のプラザ合意では、240円から120.25円まで半分になりました。
すなわち、米国政権が日米貿易不均衡是正のために、ドル安・円高誘導政策を打ち出した場合、ドル円は半分になってきました。
1985年のプラザ合意の年、米国の対日貿易赤字は461.52億ドルで、全体の貿易赤字1218.8億ドルの約38%を占めていました。
ベーカー第67代米国財務長官は、日米貿易不均衡を是正するため、プラザ合意でドル安誘導措置を打ち出しました。
ドル円はプラザ合意直前の240台から1988年1月の120.25円まで半値になりました。
しかし、1988年の米国の対日貿易赤字は517.93億ドル、1989年は490.58億ドルとなり、ドル安・円高に誘導しても、日米貿易不均衡は是正されませんでした。
そこで、米国は、1988年に、貿易慣行が不公正だと見なされれば、一方的な対抗措置を発動できる「スーパー301条」を制定して日本側への圧力を強めました。
そして、1989年に、日米貿易不均衡の原因は、日本側の経済や社会の構造にあると主張して、その是正を求めるために「日米構造問題協議」が始まりました。
1990年3月に、当時の海部総理大臣がアメリカを訪問して、ブッシュ第41代米大統領と日部首脳会談を行いました。
ブッシュ米大統領は、日米貿易摩擦をめぐり、自身がアメリカ議会との間で苦しい立場に置かれている国内事情を説明し、「SII=日米構造協議と『スーパー301条』の個別案件については、ぜひとも総理の『助力』を得たい」と要請しました。
海部総理大臣は「『301条』に関する御見解は十分に承知しており、自分としては最大限、努力する考えである」などと応じています。
1990年の日本経済は、バブル経済が崩壊した年として知られています。
日経平均株価は、1989年12月29日の大納会に、高値38957.44円の史上最高値を付けて、38915.87円で引けました。しかし、1990年は、大蔵省による「総量規制」、日本銀行の公定歩合の引き上げなどで、バブル経済が崩壊し、不動産価格や株式市場は暴落し、円高に推移しました。
当時の日本の首都東京の地価は、米国全体を上回っていましたが、不動産市場は暴落し、バブルは崩壊しました。
2021年の中国の首都北京の地価は、米国全体を上回っていましたが、不動産市場は暴落し、バブルは崩壊しました。
1990年の大納会の終値は、23848.71円でした。
ドル円の始値は143.70円、高値160.35円、安値123.65円、終値は135.30円でした。