1979年8月、カーター第39代米大統領が52歳のポール・ボルカー氏(Paul Volcker:1927年9月5日~2019年12月8日(92歳没)を第12代FRB議長(1979-1987年)に指名しました。当時の世界経済は、1978年のイランの政情不安を契機に始まった「第二次オイルショック」に襲われていました。イラン情勢の不安定化で原油生産量が激減したことで、石油輸出国機構(OPEC)は、78年12月16日に原油価格を4段階に分けて14.5%値上げすると発表したことで、原油スポット価格が急騰しました。1978年12月から80年6月にかけて、原油価格は12.92ドルから31.47ドルへ2.4倍に跳ね上がりました。
ボルカー第12代FRB議長が就任した当時の米国の消費者物価指数は、前年比+11.8%、FF金利は11.0%、米10年債利回りは9%台でした。
ドル円相場は、1978年10月の安値175.50円から「カータードル防衛策」により1982年10月の高値278.50円まで上昇する過程で、220円付近でした。
ボルカー第12代FRB議長は、高インフレ収束のために「平均的アメリカ人の生活水準を下げなければならない」と発言して、「新金融調節方式」、いわゆる「ボルカー・ショック」と呼ばれる金融引き締め政策を断行しました。ボルカー第12代FRB議長は、貨幣供給量を重要視する「マネタリスト(monetarist)」ではなかったのですが、この時だけ、マネタリストに変身したことになります。「マネタリスト」の代表的な人物は、ミルトン・フリードマンで「インフレは、いつでもどこにでもある貨幣的な現象である」と喝破しました。
1979年10月6日(土曜日)、ボルカー第12代FRB議長は、緊急米連邦公開市場委員会(FOMC)を開催し、金融政策の操作目標を、従来の「FF金利」から「マネーサプライ」の抑制に変更して、インフレ抑制の姿勢を示しました。
10月8日(月曜日)の米国株式市場と債券市場は暴落し、「サタデー・ナイト・スペシャル」と呼ばれました。「サタデー・ナイト・スペシャル」 (Saturday Night Special) とは、アメリカでの低品質だが安価な小型拳銃に対する俗称です。呼称の由来は、1960年代のアメリカで安価な拳銃による負傷者が続出した時期があり、それが土曜の夜に集中していたことを医師たちが「土曜の夜は大混雑だ」と揶揄したことからだといわれています。
米連邦準備理事会(FRB)が金融政策の操作目標を「FF金利」の水準ではなく、お金の量にしたことで、FF金利は22.4%まで上昇し、米10年債利回りは20%台まで上昇し、失業率も上昇し、米国経済はリセッション(景気後退)に陥りました。
インフレ率は1981年に14.6%まで上昇しましたが、1983年には2.4%まで低下し、ボルカー第12代FRB議長は「インフレファイター」として「カリスマFRB議長」の称号を獲得しました。
しかし、ボルカー指導下のFRBは、連邦準備制度の歴史上最も激しい政治的攻撃と、1913年の創立以来最も広範な層からの抗議を受けることになりました。高金利政策によって重い債務を負った農民がワシントンD.C.にトラクターを乗り入れてFRBが本部を置くエックルス・ビルを封鎖する事態にまで至りました。
このような中で金融引き締めを続けることが困難となり、1982年後半、3年続けた金融引き締め政策を断念しました。
米国経済がリセッションに陥ったことで、カーター第39代米大統領は米国大統領選挙で、レーガン第40代米大統領に敗れました。そして、レーガン第40代米大統領による金融緩和圧力を受けて、1987年8月、ボルカー第12代FRB議長はFRBを去りました。
後任のグリーンスパン第13代FRB議長は、10月に「ブラック・マンデー」に遭遇することになります。