1971年8月15日、ニクソン第37代米大統領は、議会に対して説明も承認を得ることもなしに、突然、キャンプ・デービッドからテレビとラジオで全米に向けて新しい経済政策、アメリカ・ドルと金の兌換停止、10%の輸入課徴金導入、などを発表しました。
1944年のブレトン・ウッズ協定で、米国ドルは「1オンス=35ドル」での金との兌換を裏付けとして、国際基軸通貨という特権的な地位に君臨していました。
しかし、ニクソン米大統領が金と米ドルの兌換停止を宣言したことで、ドルを基軸通貨とする「固定相場制度」は崩壊し、71年12月のスミソニアン協定で「変動相場制度」という海図なき航海が始まりました。
日本経済は、1949年に連合国総司令部(GHQ)が、ドル円の為替レートを1ドル=360円の円安水準に固定して以来、輸出主導での高度経済成長を謳歌していましたが、「ニクソン・ショック」による円切り上げで景気減速を余儀なくされました。
ドル円は「1ドル=360円」の固定相場を解き放たれて、半値への下落トレンドが始まりました。
1978年、360円の約半分である175.50円まで下落後、反発しました。
1988年、360円の約1/3で、プラザ合意時の約半分である120.25円まで下落後、反発しました。
1995年、360円の約1/4で、パリ合意時の約半分79.75円まで下落後、反発しました。
2011年、360円の約1/5で、ロシアデフォルト(債務不履行)時の約半分である75.32円まで下落後、反発しています。
8月15日という日は、日本では終戦記念日、米国では対日戦勝記念日の翌日にあたりますが、日米繊維交渉の決裂を受けたニクソン政権の報復だったのかもしれません。
1971年春、ニクソン米大統領は、日本の繊維製品の対米輸出規制を話し合う日米繊維交渉が決裂したことで、佐藤栄作首相に対して「失望と懸念を隠すことができない」と、強く非難する異例の書簡を送りました。「双方が満足できるような交渉を続けることが望ましいが、不可能と思われる」と交渉打ち切りを通告し、輸入制限立法の必要性に触れました。「こうした方法であなたに手紙を書くことになったことを、深く遺憾とする」と言及しました。
この日米繊維交渉の決裂を受けて、ニクソン米大統領は、日本政府に事前通告することなく、2つの「ニクソン・ショック」を日本に放ちました。
1つ目の「第1次ニクソン・ショック」は、7月15日の「米中接近」です。ニクソン米大統領は緊急演説で、キッシンジャー米国務長官が北京を訪問して周恩来総理ら中国側との間で、翌年の1972年5月までにニクソン米大統領が訪中することで合意したと発表しました。
2つ目の「第2次ニクソン・ショック」は、8月15日の「新経済政策」の発表です。ドルの金との交換停止、輸入課徴金の導入など、日本経済を狙い撃ちにしたものでした。
8月20日、水田大蔵大臣は、昭和天皇へのご進講のために那須御用邸に伺い、「日本は円高でたいへんなことになっております」と奏上しました。
昭和天皇は、「円切り上げのことを国内では非常に暗いことのように言っているが、日本円の評価が国際的に高まるのはいいことであると思う。円の力が強くなるということは、日本人の価値が高くなるということではないのか?」との下問があったとのことです。
昭和天皇は、太平洋戦争開戦前夜の9月、日米短期決戦の見通しを伝えた杉山元参謀総長に対して、「太平洋は支那よりも広いぞ」と警告されています。