中国株投資を始めるためのキーワード。今回は中国人民銀行(人民銀)について紹介します。
中国人民銀行は中国の中央銀行です。日本でいえば日本銀行に当たります。ただ、日銀のような世界の一般的な中央銀行と違い、人民銀は政府から独立した存在ではありません。中国の外交部や、財政部、国防部などの並び、人民銀は中国の最高国家行政機関である国務院(日本の内閣に相当)が管轄する26の構成部門の1つです。日本のイメージでいえば、その中央銀行は、内閣の管轄下の1省庁に過ぎません。
重要金融政策の決定権は国務院に、政策執行はある程度の独立性
現行の「中華人民共和国中国人民銀行法」第2条で、人民銀の役割について「国務院の指導の下、金融政策を定めて実行し、金融リスクを防止・解消し、金融の安定を維持する」と定めています。金融政策の目標は「通貨価値の安定を保ち、経済成長を促す」(同法第3条)。
「国務院の指導の下」が前提ですから、重要な金融政策の最終的な決定権は中央銀行である人民銀ではなく、国務院にあります。同法第五条では、「人民銀が決定した年間の通貨供給量、利率、為替レート、国務院が規定したその他の重要事項は、国務院に報告して認可を得た後に執行する」と明記しています。上記の重要事項以外は、人民銀が下した決定を即時に執行できますが、国務院に届け出る必要があります。
一方、金融政策に執行において、人民銀の独立性は程度担保されています。同法第7条では、「人民銀は国務院の指導の下、法に基づき金融政策を執行し、地方政府、各レベルの政府部門、社会団体、個人の干渉を受けない」と定めています。
人民銀の歴史、1995年に中央銀行の地位が法的に確立
人民銀の歴史は1931年に遡ります(人民銀公式サイト)。同年11月に当時の中国共産党が活動拠点とする江西瑞金で「全国ソビエト第1回代表大会」を開き、「中華ソビエト共和国国家銀行」(ソビエト国家銀行)の設立を決定しました。共産党の支配地域で通貨を発行するソビエト国家銀行が人民銀の起源でした。
国民党と共産党の内戦中、中国は国民党が支配する「国統区」と共産党が支配する「解放区」に分断されていました。解放区も一塊ではなく、いくつかに分断されていたため、各地の解放区ではそれぞれの「革命根拠地銀行」が独自に通貨を発行して流通させていました。内戦で共産党が優勢となるなか、通貨統一の要望が高まり、1948年12月に共産党が華北銀行、北海銀行、西北農民銀行を合併し、河北省石家荘市に「中国人民銀行」を設立しました。
1949年の中華人民共和国の建国後、人民銀は中央銀行であると同時に、預金、貸出、送金、外国為替などをすべて行う国内唯一の銀行となり、その「大一統」(単一銀行体制)は改革開放まで約30年間続きました。文化大革命の混乱期には財政部に統合され、財政部門と計画経済部門の記帳係と出納係となりましたが、中国歴史の転換点となった1978年の中国共産党第11期3中全会で文化大革命の清算とともに改革開放路線を決定し、再設立された人民銀の改革も始まりました。
1979年1月に農村改革を支援する業務を担当する農業銀行、同年2月と9月に外国為替業務を担当する中国銀行と長期建設資金業務を担当する建設銀行が人民銀から分離されました。1984年1月から人民銀が中央銀行機能を専管的に行使する中国の新たな中央銀行体制がスタート。同時に、これまで人民銀が担っていた工業・商業向け信用貸付業務と預金業務は新設の中国工商銀行が引き継ぎました。1995年3月の第8回全国人民代表会議で「中華人民共和国中国人民銀行法」が採択されたことにより、人民銀の中央銀行である地位が初めて法的に確立されました。
中国の政策金利
中国で金利の市場改革が推進されるなか、2019年9月から、人民銀の委託を受けた全国銀行間資金調達センターが毎月20日(休日に当たる場合は順延)の午前に公表する最優遇貸出金利(LPR、ローンプライムレート)が事実上の政策金利となりました。LPR算出の元となるオファーレートは、各銀行が毎月20日午前9時以前に中期貸出制度(MLF)金利に上乗せする方法で設定し、全国銀行間資金調達センターへ提示。同センターはオファーレートのなかで最高と最低を除いた平均値をLPRとして算出します。LPRは1年物と5年物の2種類で、1年物は金融機関が企業などに融資を行う際の金利の目安、5年物は住宅ローンの目安とされています。