中国株を始めるためのキーワード。今回も中国株の歴史に触れながら、新中国の証券取引誕生について紹介します。
中華人民共和国(新中国)で1980年後半に「株券」が復活し、1986年8月に新中国初の証券取引市場、「瀋陽証券取引市場」が開業。20世紀前半まで金融の都として繁栄していた上海市や、改革開放の先頭を走る深セン市でも店頭取引市場が開設されました。そして、1990年12月1日、深セン証券取引所が営業を開始しました。中央政府から開業の許可がまだ下りていなかったのですが、経済特区として与えられた「試験権」を活用し、市政府が“試験営業”を決断しました。
一方、なかなか開業許可が下りなかった深センとは対照的に、上海証券取引所は1990年11月26日、中央政府が設立を許可しました。深セン証取の試験開業から18日後、1990年12月19日に正式開業しました。
目指す国際金融センターの復活
1989年12月の金融体制改革会議で、上海がかつての国際金融センターの復活を目指する方針が決定し、その目玉の一つが証券取引所の創設でした。1990年4月18日に李鵬首相が上海市の浦東地区の開発・開放の方針を表明。計画には証券取引所の創設も盛り込まれました。そして、上海市長だった朱鎔基氏は1990年5月、米国やシンガポールなどを歴訪して最後に立ち寄った香港で記者会見を開き、海外メディアを前に上海証券取引所が年内に開業すると宣言しました。
1990年12月19日、租界時代の華やかさが残る北外灘の老舗ホテル、「浦江飯店」の孔雀大庁(ピーコック・ホール)で、開業式典が盛大に開かれました。当時の朱鎔基・市長など上海市政府の幹部や、後に中国証券監督管理委員会(CSRC)の主席を務めた国家経済体制改革委員会の劉鴻儒・副主任、中国人民銀行(中央銀行)の周道炯副行長と周正慶副行長、香港、欧米、シンガポール、日本の金融関係者などが出席。朱鎔基市長が開業を宣言すると、上海証券取引所の尉文淵・総経理が銅鑼を鳴らしました。尉文淵氏は当時35歳で、異例の若さでの起用でした。
わずか半年の開業準備、時代を先走るコンピューター注文を採用
朱鎔基氏が世界に向けて宣言をしたことで、上海証取が開業するまで半年のカウントダウンが始まりましたが、実際は準備がまったく進んでいなかったようです。一つの大きな課題は注文方法でした。当時は手振りで注文を出す「場立ち」がまだ世界の主流で、中国の大銀行でさえまだ算盤を使っていた時代でしたが、尉文淵氏に指示を下す創設準備オフィスは最終的にコンピューターの採用を決定しました。「場立ち」を採用する方向でいったん人員の育成を開始したものの、手振りでの情報伝達に誤りが目立ち、大混乱の連続。シンガポールや台湾ですでにコンピューター取引の普及が始まったことを聞きつけた若い尉文淵氏は、なんとか上層部を説得したそうです。
コンピューターの採用を決定した時点で、年末まで4カ月しか残っていません。海外の大手コンピューター会社にプログラミングを依頼しようとしましたが、スケジュール的に無理と断られてしまいました。結局、尉文淵氏は深セン市政府系企業の深セン市黎明電子工業から30台のコンピューターを仕入れ、深セン市黎明電子工業の社員で、1990年に中国初のコンピューターネットワーク企業を創設した鄭一輝氏や、自身の母校である上海財経大学の教師らにプログラミングを頼むことになりました。プログラミングの発注について契約したのは開業2カ月前に9月15日、プログラミングがなんとかできたのは12月18日ごろだったそうです。簡単なテストを数回行っただけでのぶっつけ本番でした。
鄭一輝氏は当時のことを後にこう振り返っています。「開業当日はコンピューターの取引に障害が起きないかと、胸がドキドキした。銅鑼が響いた瞬間、緊張で息が詰まりそうになった。幸いにも天の助けもあって、最初の取引は成功した。会場は熱烈な拍手と歓声が沸き起こり、私も涙を耐えて力強く拍手しました。
尉文淵氏も2001年の取材で、「当時は若気の至りで無謀なことをした。今考えるとぞっとする。もし失敗していたら、どう責任を取ればいいか」と語っていました。
上海市場の「老八股」
上海証券取引所の開業初日に上場した株式は8銘柄で、「老八股」と呼ばれました。