中国株を始めるためのキーワード。今回は中国株の歴史に触れながら、新中国の証券取引所の誕生について紹介します。
この連載で以前にも触れましたように、中華人民共和国(新中国)で1980年後半に「株券」が復活し、1986年8月に新中国初の証券取引市場、「瀋陽証券取引市場」が開業。20世紀前半まで金融の都として繁栄していた上海市や、改革開放の先頭を走る深セン市でも店頭取引市場が開設されました。ただ、名称はいずれも「証券取引所」ではなく、「証券取引市場」でした。なぜかというと、社会主義の中国で「株」は存在が認めるべきかというイデオロギー論争が止まないなか、「取引所」は資本主義色が濃厚で、「政治的に敏感すぎる問題」だったからだそうです。
深セン証券取引所の公式サイトには、「本取引所は1990年12月1日から営業を開始」と記載しています。一方、上海証券取引所の公式サイトは「1990年11月26日に設立、同年12月19日に開業」と紹介しています。「営業開始」と「開業」で微妙に言い回しが違いますが、上海証取は中央政府の許可を得た上での正式開業、深セン証取は許可のないままの試験開業でした。深セン市が中央政府の許可を得て正式に開業したのは、7カ月後の1991年7月3日でした。
深セン証取は1988年から創設準備、中国初の証券取引所ガイドラインを編纂
深セン市は1988年から証券取引所に創設に向けて準備に着手し、同年11月に市政府が「資本市場領導小組(資本市場指導チーム)」を立ち上げました。チームのリーダーは証券について学ぶため、日本留学へ派遣されていた禹国剛氏でした。禹氏が率いるチームは半年以上かけて、外国の会社法、証券法、投資者保護法、会計制度、会計基準など200万字以上の資料を中国後に翻訳し、「深セン証券取引所創設資料集」を編纂。同資料集は「ブルーブック」と呼ばれ、証券取引所の創設に向けて中国初のガイドラインとなりました。
1990年5月、禹氏らが深セン証取の開業を申請するために北京に赴きました。ここもやはり「名称」がネックとなり、「深セン証券取引所」は「敏感過ぎて承認できない」との審査結果が返されました。名称を「深セン証券取引市場」に変更するよう提案を受けたものの、禹氏は譲らなかったそうです。
また、1990年の深センといえば、この連載の「中国股民」で紹介しましたように、空前の株式投資ブームの真最中でした。「深センの株を買えば大金持ちになる!」との情報が全国に拡散し、各地から人々が一攫千金を夢見て深センに集まり、市内にある3カ所の店頭取引市場は人で溢れ、取引されている5銘柄の株価が暴騰。あちらこちらで闇市場も乱立し、各闇市場の価格差を利用した裁定取引が横行。金儲けに目がくらんだ人々は勤務時間中にも投資に夢中となり、役場や会社で「職場放棄」も横行しました。社会の大混乱を受け、中央政府ではそもそも「資本主義の株式市場」に反対する勢力が勢いを増している時期でもありました。それも深セン証取の開業許可がなかなか下りない背景にありました。禹氏は1990年11月、証券取引所の準備状況の視察で訪れた市の幹部に対し、「闇市が乱立しているが、深セン証取が早期に開業すれば、現在の市場が抱える病は85%がすぐに解決する。逆にこのまま店頭取引のこのまま続いた場合、いつかは収拾がつかない状況になる」と述べ、証取設立の必要性を訴えました。
中央の許可ないままの“試験開業”、経済特区の「試験権」を活用
「上海証券取引所が1990年末にも開業する」とのニュースが流れるなか、「中国初の証券取引所」という栄誉を譲りたくない気持ちもあったでしょうか、深セン市当局は11月下旬、深セン証券取引所を1990年12月1日に「試験開業」することを決定しました。中央政府の許可がないままの開業を決断できたのは、深セン経済特区に中央政府から「試験権」が与えられていたからです。
12月1日の試験開業当日に上場したのは蛇口安達運輸股フン有限公司の1銘柄のみ。深センの店頭市場で5銘柄が取引されていましたが、ほかの4銘柄は手続きが間に合わなかったそうです。注文は5件、約定は8000株でした。
中央政府から深セン証券取引所の開業許可がようやく下りたのは翌1991年の4月16日。同年7月3日に深セン証取は2度目の開業式典を行いましたが、いまも「開業記念日」を12月1日としています。
深セン証券取引所の試験開業した1990年12月1日からわずか18日後、上海証券取引所は12月19日に開業しました。中央政府が11月26日に上海証券取引所の設立を許可したため、試験開業の深セン証取と異なり、上海証取は堂々の正式開業でした。次の機会でそれについて紹介します。