中国株を始めるためのキーワード。今回は中国株の歴史に触れながら、中国政府の「市場介入」の始まりについて紹介します。
この連載で以前にも触れましたように、新中国で株式市場が誕生したばかりの1990年に、改革開放の最先端を走る深セン市では、空前の株式投資ブームが巻き起こっていました。
株投資ブームで社会が混乱、矢継ぎ早の株価抑制措置
新中国の建国後、資本主義を象徴する株式と証券取引は、30年ほど姿を消しましたが、1980年後半に「株券」が復活し、店頭取引市場が開設されました。これまで投資とは無縁だった一般市民は、最初は冷ややかな目を向けていましたが、株式投資で一夜にして十数万元、数十万元の儲けを手にした「成功者」を目の当たりにして、投資の魅力に一気に目覚めました。
1990年の深セン市の株式市場は「三家五股」の体制(「三家」は株券の店頭取引を行う3つの金融機関、「五股」は店頭取引される株券5銘柄)でした。殺到する投資家で需給バランスが崩れ、株価は2倍、3倍、4倍とみるうちに急騰しました。深セン市のあちらこちらで闇市場が乱立し、各闇市場の価格差を利用した裁定取引が横行。金儲けに目がくらんだ人々は勤務時間中にも投資に夢中となり、役場や会社で「職場放棄」も横行したようです。
社会の大混乱を受けて、ついに政府が動き出しました。深セン市政府は1990年の5月28日、店頭市場以外での株券売買を禁じると通告したほか、人民銀行深セン分行が初めて前日終値に対して上下10%の値幅制限を導入。6月18日から制限値幅は上下5%に縮小され、さらに6月26日からは上1%、下5%に変更。つまり、1日の株価は最大1%しか上昇できないのに、5%は下落できるという、いま考えるとあまりにもあり得ない措置でした。買付者と売付者の双方に対する0.6%の印紙税(当時の香港市場は0.2%)の徴収、配当金が銀行定期預金1年物の利息を超える部分に対して10%の“個人収入調整税”の徴収といった措置も導入しました。
それでも効果はなく、株価が下落することなく、7月から11月中旬までの間、毎日1%ずつ上昇するという怪現象が続きました。11月21日から制限値幅は上0.5%、下5%に再度変更。闇市場の撲滅に向けて取り締まりも一層強化されました。
手荒い措置はやがて効果、株式市場は暴落に
中央政府では、当初から「資本主義の株式市場」に反対していた勢力が勢いを増し、「ただちに市場を閉鎖すべき」といった意見が噴出。中央政府からの圧力もあり、深セン市は10月から処級(課長級)以上の党幹部の株券売買を禁じると決定。11月から幹部らによる持ち株の売却が始まりますと、一連の措置の効果が合わさり、11月末から株価はついに下落に転じました。売りが売りを呼ぶ展開となり、その後の9カ月超にわたり株価が暴落。売買代金も極端に縮小し、取引がまったく成立しない「出来高ゼロ」の日も記録しました。深セン市政治協議委員会サイトの「深セン証券市場発展回顧録」によりますと、1991年9月には、深セン市場の時価総額がピーク時の75億元から30億元に落ち込み、PERも70倍超から10倍あまりになりました。
ちなみに、この混乱のさなか、深セン証券取引所は1990年12月1日に中央政府の許可がないまま、試験開業しました。その後はようやく中央政府の許可を得て、1991年7月3日に正式開業を迎えました。
市場救済に動き出す、1991年の深センに「国家隊」の原型
株式の投機熱は一連の手荒い抑制措置ですっかり冷めましたが、政策が効きすぎて生まれたばかりの証券市場が頓挫することも当局は望んでいません。深セン市政府はやがて市場救済に動き出しました。
深セン証券取引所は7月10日に初めて市場救済会議を開き、9月2日まで5回も会議を開いて救済策を議論したそうです。最終的には、深セン市政府による株式市場の買い支えで合意にたどり着きました。中国株式市場の回顧録『氷と火――中国株式市場の記憶』によりますと、深セン市政府は2億元の資金を集め、9月7日から極秘で買い支えをスタート。対象は深セン発展銀行の1銘柄に絞り、その効果で10月に深セン発展銀行の株価が上昇トレンドに入りますと、ほかの銘柄も株価が上向きに。次第に深セン市場の売買代金が回復し、投資家は市場に戻りました。当局による初の市場救済は成功に終わりました。
いまも中国の株式相場が低迷すると、「国家隊」と呼ばれる政府系マネーが買い支えに動き出します。その原型は、1991年の深センにありました。