中国株を始めるためのキーワード。今回は「中国不動産市場の誕生」について紹介します。日本で中国の「不動産バブルの崩壊」を巡る報道はよく目にしますが、巨大な規模に膨れ上がったこの市場がどのように誕生したのか、知る人は意外と少ないかもしれません。
建国から30年間、住宅は「配給」の時代
1949年の建国から1978年12月に改革開放が始まるまでの約30年間、中国本土で都市部の住宅は勤め先の「単位」(行政機関・軍隊・学校・企業・団体)が個人に配給する「公有財産」であり、福利厚生の一部でした。不動産は売買するものではなく、不動産を売買する市場も当然ながら存在しません。
住み家を勤め先から無償で提供され、家賃も極めて低く設定されているから、それだけ聞くと、それほど悪い制度でもない気もします。ただ、個人に配給する住宅は国や地方政府、または「単位」が建設しなければなりません。住宅を建てる資金がなく、供給不足で当時の住環境は極めて悪劣でした。新たに建てられた物件を提供するというより、公有化された建国前の古い住宅を、小分けして配給するケースのほうが多かったようです。トイレ、風呂がなく、洗面所と台所を数世代が共有する時代でした。資料によると、広東省広州市で1978年までの30年間、1人当たり居住面積はわずか3平方メートル(約1.6畳)でした。
「配給品」から「商品」へ、不動産市場誕生の歴史
1978年9月に開かれた全国城市建設会議で、住宅問題の解決について、国務院(日本の内閣に相当)の谷牧副首相が、後に中国の改革開放をリードする鄧小平氏の指示を伝えました。鄧氏は「道を広げたほうがいい」と語ったという。個人が住宅を建てる「私人建房」、個人が公的な援助を受けながら住宅を建てる「私建公助」などに言及しました。
1979年10月、全国初の「商品住宅」(商品として販売するために建設する住宅=分譲住宅)、広州「東湖新村」の着工が承認されました。広州市東山区が香港資本を引き込み、共同で建設した集合住宅群です。東山区が土地とインフラを提供する一方、香港企業が1000万HKドルの資金を提供し、建設も請け負いました。1982年末に完工し、敷地面積は3万1200平方メートル、延べ床面積は7万6000平方メートル。8階建て住宅25棟、エレベータ付き16階建て住宅25棟の計27棟で、総戸数は1000戸に上ります。
1980年1月、経済特区の深セン市で中国初の不動産デベロッパー、深セン特区房地産公司が誕生。同年4月に、最高指導者となった鄧小平氏が「建築業と住宅問題に関する談話」を発表し、「房子是可以売的」(住宅は販売できるもの)との政策スタンスが確立。鄧氏は、「都市住民は住宅を購入、建設できる。新しい住宅も古い住宅も売却できる。(購入代金は)一括払いができるし、10年、15年かけて分割払いもできる」と発言。同6月に中国共産党中央委員会と国務院が「住宅の商品化」政策を正式にスタートしました。
1987年に深セン市で中国初となる土地使用権の競売が実施され、深セン特区房地産公司が525万元で落札。同地に中国で初めて住宅ローン方式で販売する分譲集合住宅群「東暁花園」を建設しました。
1988年4月に「憲法10条」が改正され、「土地使用権は法律に基づき譲渡できる」という一文が追加され、土地使用権の「商品化」に向けた法整備が整いました。1990年5月に国務院が「都市部国有地使用権の譲渡に関する暫行条例」を公表し、全国で土地使用権の有償譲渡が始まりました。1998年7月に都市住宅制度の改革が発表され、数十年続いた住宅の配給制度が廃止となり、住宅は完全に商品となりました。
不動産大手が相次ぎ誕生、2000年以降に高成長期
深セン特区房地産公司に続き、1980年半ばから90年代にかけて、万科企業(02202/000002)や、緑地控股集団(600606)、碧桂園(02007)、万達集団、保利発展控股集団(600048)などの大手不動産デベロッパーが相次ぎ誕生。2000年代に入ると、中国の不動産市場は高成長期を迎え、民営企業が次々と不動産市場に参入しました。国家統計局の発表によると、中国の不動産デベロッパーの数は2000年時点で2万7303社でしたが、2004年には2.2倍の5万9242社に増え、ピークの2021年には10万5434社に上りました。
不動産業は雇用の受け皿となり、中国の経済成長をけん引した一方、投機熱も加わり、住宅価格は高騰の一途。習近平政権になりますと、「房住不炒」(「住宅は住むためのものであって、投機するためのものではない」)を標語に掲げ、強力な政策を講じて不動産投機を徹底的に封じ込めるスタンスが政策基調となりました。